部屋に入って、戸を閉めた瞬間、猛烈に身体が重くなった。
 もっとも、実際にはそう感じただけのことだ。別に何かがのしかかってきたとかではなく、わずかに気が弛んだ隙に、今まで蓄積していた疲れが自覚された、という、それだけのこと。
 そのままこの場にへたりこみたい衝動を感じつつ、しかしツナは、ぐ、と息を飲んでその衝動を押し殺した。まだ休むわけにはいかない。
 町外れの安宿の、とても複数人の利用に耐えるとは思えない狭い一室に、一緒に入った人物を振り返る。
 そうしてから、ツナはふと思い直して、一度は閉めた扉を拳ひとつ分ほど開けた。
 塗りのはげかけたドアから、ギィ、と小さな音。たてつけも悪いらしい。
「……なんです。閉めないんですか?」
 不機嫌な声で尋ねてくる相手に、ひとつ苦笑を返す。
「ちょっとな。考えてみたら、こっちの方が、外の様子がうかがえる。ギリギリまで直感研ぎ澄まさなくても、襲撃に気づけるなと思って」
「……ご苦労なことですね」
「お前もね。……閉めた方が落ち着けるなら、そうするけど?」
「別に。どちらでも構いませんよ。僕は」
 ふいと視線を反らして、彼はそう言った。
 だろうな、とはツナも分かっていた。廊下の様子を伺いたいのも嘘ではないが、扉を開けた理由のひとつは、彼はその方がいいだろうと分かっていたからだ。興味が薄そうな素振りでも、一瞬動いたかすかな安堵を、ツナは感じ取っていた。
 ……そう。どうやら彼は、密室が苦手だ。それも人口的な密室が。
 アジトによく廃虚を選んでいるのも、ある程度壊れた空間の方が落ち着くせいだろうと、ツナは思っている。
 無理もない。……六道骸。彼の、過去と現状を考えれば。
 一瞬頭に浮かんだ、『水槽』――消毒液に満たされた人工的な密室を振り払って、ツナは強いて笑顔を作った。
「なら、開けとくよ。これで平気なら、お前はもう休めよな」
 彼だって力を酷使して、相当疲れているはずだ。いつもならとっくに意識があの場所にある彼本来の身体へ、帰ってしまっていてもおかしくない。
 固そうな安物の(せめてシーツは洗濯されていると信じたいものだ)ベッドを指差すと、彼は盛大に顔をしかめた。
「僕が? 僕は、平気ですよ。軟弱な君こそ、さっさと休めばいい」
 つっぱった物言いに、彼の矜持がにじんでいた。意固地、と言ってはあんまりだろうか。
 疲れきっているはずなのに、さっきから座ろうともせず険しい顔をしているのも、マフィアを前にした意地のためか。
 あるいは。
「……大丈夫だよ、骸。眠っても、髑髏には戻らない。オレが、捕まえておくから」
 一度寝てしまったら、再び身体の主導を取れないだろうという、危惧のためか。
 霧の守護者であるところの骸は、今日、相当働いてくれた。能力と精神力の限界も近いだろうから、今うっかり寝てしまえば、髑髏に戻ってしまって、しばらく日をおかなければ、この現実世界に再び割り込めないのではないだろうか。
 けれど、それでは困る。困ると彼も知っているから、無理をしようとしてるのかも。
(でも、ふらふらなままでも困るしな……ここは、骸をなんとか休ませて回復させないと)
 だからツナは、手に微弱な死ぬ気の炎を灯しながら、彼に頷いて見せた。
 これは、超直感と、死ぬ気のコントロールの応用だ。
 死ぬ気の炎に繊細な加減をつけて、相手の波長に合わせ、同調と共振を呼び起こす。
 上手くすれば相手の思考を読み取れるし、自分のイメージを伝えることもできる。
 昔、9代目が死ぬ気の炎で、ツナに自分の意志と記憶を送ってきたのも、この手法だった。
 それを使えば、骸が意識を手放しても、ツナが同調で彼の意識を保っておける……はずだ。
 だから寝てよ、とツナが言うと、骸はいかにも忌々しげに舌打ちした。
「君が? 寝ずの番で、僕を保ってくれると? これはこれは。ありがたくて泣けてきそうです」
「お前、ねぇ……」
 そういうこと言うなよな、といううんざりした気分の一方で、少しツナはおかしくなった。彼の矜持、もしくは、意地、が。
「――あのな、骸。オレは何も、同情とか優しさとかで、こんなこと言ってるんじゃない」
「君からそれを取ったら、なにも残らない気がしますがね」
「そうでもないよ。残るものもある。……合理的な判断、とかね」
「……はっ」
 ……鼻で笑われたよ。
「実際、これは道理なんだぞ、骸? これからオレの……オレらの『任務』を果たすにあたって、必要なのはお前の能力の方なんだ」
 今のツナと骸は、ボンゴレの仲間から離れて――『囮』を敢行中だ。
 秘密裏に獄寺と山本が進行してくれているはずの裏取引から、敵の目を逸らす。
 そのために、ツナは「じゃあ一番目立つオレが」と名乗りをあげ(守護者には強硬な反対にあったが)、「人目をくらましつつ逃げるにかけては一番だから」と幻術を使う骸を指名した(守護者のみでない、更に強硬な反対にあったが)
 結果、ツナが目立つ行動で大勢をを引きつけつつ、骸の幻で逃げおおせる――そんなことを、もう数日繰り返しているのである。
 ぎりぎりの攻防、それも基本は多対二。消耗は激しく、休める時間はごくわずかだった。今日も、かろうじてこの安宿に、逃げ込んだ。追っ手に見つからなければ、少しは……朝までの数刻ほどは、休息できる。そして、ツナたちの頑張りのおかげで、獄寺たちはかなり自由に動けたはずだ。ここまでくれば、あと一両日中にはケリがつく。明日が勝負、だろう。
「オレはしょせん囮のエサだから、多少動きが鈍くても……お前が、万全なら逃げられる」
「…………」
「だからオレが消耗しても、お前が休む方が戦略的に正しい。そうだろ骸?」
 舌打ちしそうな表情の相手に、ツナは苦笑をこらえるのがやっとだった。
「それに……正直、お前の前で寝こけるとか、無防備にもホドがあるだろーし。いつ寝首かかれるか、分かったもんじゃない」
 とはいえ、ツナはあまり気にしないが。そんなことしないだろうって、思ってるから。
 多分、獄寺辺りには盛大に反対されるだろう考えだが。
 それでも、こういう理由は、マフィアの敵を自認する彼に、受け入れられやすいことも知っていた。骸の表情が、少し緩やかになる。
「でも逆なら、まぁいいだろ。オレはお前をどうかしたりしないよ。オレは……ま、よくお前が言うとおり、甘ちゃんだし。それに、骸の力も必要だ。……守護者なんだから」
「……ふん。下らない」
 そういう口調も、少し笑みを含んでいるように、ツナは感じた。
「けれど、確かに。これから正念場を乗り切るには、僕の力が必要でしょうね。君よりも」
 そう言って骸は、やっとベッドに腰掛けた。やれやれ。
 隣に椅子を置いて、ツナは座る。
「頭下げてよ。額が高いと疲れる」
 腕を差し上げかけて言えば、相手がしぶしぶとベッドに横たわった。横たわるなり、ぐたりと目を閉じる。――限界まで疲れ果てていたのだろう。無理するから。
 かけてやろうとした毛布は、手で払われた。
「――いっておきますが。僕が寝ている間、妙なマネをしたら殺します」
「はいはい。分かってるよ」
「……マフィア風情、が――」
 舌打ちしかけたまま、骸はすぐに黙ってしまった。閉じた目がかすかに震える。寝息のような呼吸音。……無理するから。
(これは本当に、このままだと意識がなくなりそうだな……骸)
 ツナは、指先に灯した炎に集中しながら、覚悟を決めた。
「……よし」
 骸の額の触れるか触れないかの位置に、手をかざす。瞬間、ものすごい緊張が走る。
 ――骸の、意識は。
 こうして触れるのが、本当は、とても、キツい。
 他者の意識に触れるのは、集中が必要な以上に、ツナにとっても精神的にキツい作業だった。
 まして、こんな疲れているときに、相手が骸では。
 ツナがこれを行う相手は、基本的に身近な相手……例えば、守護者が多い。彼らはそれぞれ、独特の精神があり、異なる光があり闇があり、それぞれに強烈な意志の持ち主だ。
 その中で骸の意識と過去は……とにかく、暗くて、痛くて、重い。
 それとつながりと持ち、それでいてツナの意識も保つ、ぎりぎりの調整は、神経をざりざり削るような作業だった。
 例えて言うなら、底なしの血の海に沈みゆこうとする人間の、手の先だけを取って、沈まないように支えている、ような。
 血にまみれた手は滑りやすく、今にもどぷんと血の海に沈みそうになり、目眩のするような負の記憶がのしかかり――。
(……ダメだ。落ち着け……)
 ツナは3度、深呼吸して己を立て直した。と。
『……ごめんね。ボス』
 ツナが同調を図る意識のすみから、か細い、声ならぬ声がした。
 骸に身体を貸す少女のものだと、すぐ分かる。その声が血の海をかすかにゆらして、ツナは取りこぼしそうになった手のイメージに、慌てて意識を集中した。
『……ごめんなさい。私がいるから……骸様、意識が薄れそうになっちゃう……』
『……それは、違うよ。君がいるから、骸はここにいられるんだ。大丈夫だから。……髑髏も、寝てて』
『……うん』
 小さな意識が、膝を抱えるような気配。
『できるだけ……静かに、してるわ。その方が、ボス、やりやすいものね』
『……ごめん』
『ううん……気に、しない、で――』
 膝を抱えた意識が、小さく小さく隠れていくイメージ。
 本当に彼女に悪いな、と思いながら、ツナは精一杯、優しい共鳴をそちらにむけて送った。安らかな眠りのイメージだ。柔らかな太陽、母の膝、父の手……そんな風な。『ありがとう』と最後に小さな声がした気がした。
 ――彼女の、意識も。本当は、触れるのが意外にキツい。すごく、寂しくて空虚な感じなのだ。
 だからせめて、自分が信じるいいモノのイメージを、ツナは送りたかった。
(……骸には、できないんだけどな)
 彼の意識と、ツナのイメージは隔たりがありすぎる。多分、ツナの信じる柔らかく温かな記憶を、彼は理解しないだろうということが、ツナにはなんとなく分かっていた。
 だから、彼には、可能な限りの「平静」なイメージを送ろうと思って、指先に更に集中した。静かで平らかで穏やかな。そういう同調を。
 しばらくすると、血の海のイメージの波が、少し凪いだような気がした。
「……ふぅ」
 この調子で、朝まで。時折かすめる、彼の記憶(それは大抵、赤か黒の色をしていた。ときどき、病室みたいに真っ白なこともある)に耐えながら。
 想像するだけで、気が変になりそうな作業だ。けれど。
 それも、必要なことだと思えば、耐えられる。
 それに――
『よく、他者の意識にはふれておけよ。特に骸はいい。それも考慮して守護者に選んだトコもあるくらいだ』
 ふと、そんな『言いつけ』を思い出して、集中が乱れそうになった。
 それは、リボーンの最近の口癖だ。いわく、他者の闇に触れておけと。
『テメェはこれから、どんどんマフィアの闇と業に触れていかなきゃならねぇ。お前の中に流れる血にまつわる、悲惨な来歴を知ることもあるだろう。悲惨な現実を目の当たりにすることも、お前本人がその犠牲になることもあるだろう。
 それに直面したときに乗り越えるには、疑似体験が必要だ。あらゆる悲惨さを知っておけ。他者の痛みに同調することで耐性がついていれば、自分のときも耐え易い。……いわば、予防接種だな』
 とんでもないことを言う教師だ。が。
『ボンゴレのボスが、代々ブラッド・オブ・ボンゴレを引き継いでいることを必須に求められるのも、ひとつには超直感があるからなんだぞ。そして、様々なタイプの守護者をそろえ、時間をともに過ごすうち、その記憶と同調する。
 そこで誰にも真似できないほどの擬似的な人生経験を得るんだ。――ボンゴレのボスともなりゃ、そのくらい、必要なんだ』
 そうとも、言っていたものだ。
 だとしたら、ボンゴレは代々こんなことをしてきたのだろうか。例えば、9代目も?
『その過程で、な。ボンゴレは、大体、その重みに耐えかねて――両極端に、走る。
 世の中の全部に絶望して、何も信じられなくなり、全部壊しちまおうって『武闘派』になるか。
 世の中の絶望に目を背け、そうでないものが必ずあるって信じようとする『穏健派』になるか……』
 武闘派か穏健派かの起源は、存外、そんなところにあるものなのだと、リボーンは言った。
『9代目は後者だな。何かを信じたくて、何かを救いたくて、結局――ザンザスのことを、ああしちまった』
 いつものリボーンが9代目を語るときにはあり得ないような、硬い声だった。
『お前……それを弱さだと、思うか?』
(……分からない)
『お前には――他の奴である程度の耐性がついたら、そのうち、オレの『中身』も見せることになるだろうな。……そんときはお前、どっちの選択をするんだろうな』
(……分からないよ、リボーン。どっちとか、選ぶとか、全然分からない)
 ツナには、そんなことは分からない。ただ。
(オレは……悲しい。ただ、悲しいんだ)
 どれほど他者の記憶と意識を見ても、そこから目を逸らせない。けれど、世界の全てを壊したいというような怒りも、もてない。
(ただ悲しくて……どうしてこんなことがあるんだろうって、思う)
 そう答えたツナに、リボーンは――なんだか、困ったように笑ったようだった。
『……そう、か。そういうのも……いいかもな。どっちつかずで、ずっとうろうろ迷ってやがるのも。……テメェらしいかも、しれねぇ』
 随分な物言いだ。けれど。
(いいよ。別に、それでも)
 迷いのある手だって、きっと誰かの手をつかむことくらいできる。おぼれないように。見失わないように。
 記憶から意識を引き戻して、再び、寝台に横たわる人物に意識を戻した。
 疲れ切った様子の男は、しかし、さっきより少しだけ、呼気が穏やかになっている……ような、気がした。
 そう思いたかっただけかもしれないけど。
(そうできるなら。オレは、それでいいよ。それで、十分なんだ)
 リボーンの『中身』とやらに接したとしても――そうできればいいな、と。
 重いまぶたをこらえながら、ツナはそう思った。



骸ツナに見せて実はリボツナ(待って)
9代目がツナに過去のちまツナ映像見せてたあの技は、一体なんなのかなーってずっと考えていたりします。
そして、穏健派と武闘派の中間は、初代と十代目のみ!という妄想は、もうほぼわたしの中では確定なんです…(おいおい)