重く湿った空気の中、暮れ行くビルの谷間を、人々は足早に通り過ぎていく。
 空に垂れた厚い雲は、今にも雫に凝結して落ちてきそうで、どこかへ向かう人の足は、それを避けようと自然急ぎ足になっているようだ。
 子供達が空を見上げながら走っていく。
 傘を手にした勤め人らしき男が帰り道を急ぐ。
 買い物帰りらしい夫人が荷物を抱えなおして歩を速める。
 学生風の青年たちがそれでものんびりと気楽そうに歩いていく。
 そんな町の風景とすれ違いながら、『彼女』は、細い左腕を持ち上げた。
 そこにはまったブレスレット状の時計で、時間を確認し――
「はい、待った」
 確認しようという素振りを見せた瞬間。
 その手首が、横手からの強制力を受けてホールドされた。
「……っ!?」
 骨がきしむような硬い力に絡めとられる。
 はっと滑らせた彼女の目に映ったのは、鉤型の黒い物体に絡められた己の手首だった。
 これは……。
 目を更に先に滑らせる。
 その先に立っているのは、先にすれ違った勤め人のようだ。平日の夕刻、町のどこの片隅でも見かけるサラリーマン風の男。
 よれた安物の黒っぽい背広。くたびれたシャツの首にひっかかった、ひと束千円みたいなネクタイ。無難そのものの黒縁眼鏡。
 手にしているのはこれも安っぽい黒い男物の傘で――その、鉤型の持ち手こそが、彼女の手首を捉えた物体の正体だった。
 冗談みたいな光景に、彼女は反射的に「なんですか」と儀礼的な笑みを作りかけて……固まった。
 たたまれた傘軸の中ほどを持つ男の手は、さほど力を込めた様子もないのに。
 彼女の手首は髪一筋も動かない。
「時計型端末、ねぇ。まるでスパイごっこだな」
 その単語に、笑みどころか身体が固まった。
 途端、男の雰囲気が変わる。
 それまで、町のどこにでも立っていそうな、空気のような存在感のサラリーマンだったのに。
 眼鏡の奥の目は、そんな日常とは異質の硬さを備えていた。
「まあ、道具にはこだわった方が『ごっこ』は面白い。それは、オレも知ってるけどな」
 声は明るくとも、浮かべた笑みは……むしろ、黒衣の死神のもののようだった。
「……っボンゴレか!」
 身構えた彼女の声に応えるように、周囲がざわりと湧いた。
 それまで平和な黄昏時風景の一部を構成していた人々はいつのまにか退場し、殺気立った男達になり代わっている。彼女を守ろうという意志もあらわに、2人を囲む。
 傘を手にした男は、しかしそれを意に介した風もなく、悠然と笑ったまま――手首を、返した。
「まあ……な!」
 語尾と同時に、傘が鋭く回る。時計――のように見えるそれ――を、引っ掛けるなり、彼女の手首から銀のチェーンがちぎれ飛んだ。
 傘の持ち手はそのまま突き出され、彼女をビルの壁面にまですっ飛ばす。
「……がっ!」
 次の瞬間には、踏み込んだ男の手に、宙に舞った時計が収まっていた。
「……この……!!」
 周囲の殺気が増す。
 その真ん中で男は、笑ったまま、ゆるく傘を振って回した。
 まるで酔っ払いがゴルフの素振りでもして見せるようなふざけた光景だ。
 と、そのとき。
「山本ぉ!」
 道の両側に並ぶビルの上から、そんな声が降ってきた。
「殺すな! ……できるだけ、傷もつけないで!」
 声と同時に降って来るのは、ひとつの人影。
 そこらの町ビルとはいえ、5階分はある高さから落ちる人体は、まるで自殺者のものでしかあり得ない。
 その場の人間のほとんどはぎょっと固まり、傘の男もそれを見上げた。
 そこを、狙って。
「しっ!」
 立ち並んでいた男達の一人が、刃物を手に彼に飛びかかった。
 が。
「……っと」
 半身引いた彼に、あっさりとかわされる。
 彼はそのまま体ごと傘を引いた。地を低く滑った傘の持ち手が、飛びかかってきた男の足を引っ掛ける。
 どうっと音立てて、襲撃者の身体は道に転がった。
 そのすぐ隣に、ゴウッと熱波が――否、まさに炎が、吹き付ける。
 その衝撃をクッションにして、ビルから飛び降りた人影は、ふわりとその場に舞い降りた。
 倒れた男の身体を蹴り飛ばしながら、傘の男がそれを迎える。
「ちょ、山本、今のきわどくなかった!?」
「やー。ワリィ。どーも、『オレに向かって落ちてくるツナ』ってのはダメなー。つい見惚れちまう」
「……バカ。何言ってんだ」
 言いながら彼らは、背中を合わせ――合わせた背は、頭ひとつほど差があった――周りを取り囲む敵に備える。
 背の高い始めの男は、手の中の傘をくるりと回し、落ちてきた小柄な人物は、手にはめたグローブをぎゅっと鳴らした。
「……炎……!?」
「まさか、ボンゴレの――」
 低いざわめきと動揺が、男達の間に流れる。
 それを見て取って、小柄な方が進み出る。
「『上』の連中は片付けた。狙撃支援はもうない。――できたらこのまま解散して欲しいんだけど。これ以上の騒ぎも面倒だし、こちらとしては、コレを回収して、そっちの計画を阻止できたら、それでいい」
 コレ、と言いながら、隣の男の手から垂れる銀鎖を指す。指された方は、くくっと笑った。
「……なんだよ山本」
「いや、いかにもツナらしーと思って。けど」
「……ふっ、ざけるなぁ!」
「向こうはそうはいかねーみたいだぜ?」
 殺気に怒気を絡ませて一斉に殴りかかってくる男達。
 ちっと舌打ちして眉をひそめた小柄な男が、グローブの拳を固めて迎撃しようとする前に。
 コンクリートのビルごとなぎ払うような、強烈な衝撃波が一閃し、その全員をすっ飛ばした。
「しかも、できるだけ傷つけるな、かー」
 傘を構えた男が、「ははっ」と笑う。
 鉤型の持ち手を握った右手が光速で繰り出されると、
「ちっとムズかしーよな。変装用の傘じゃなー。いつものエモノと違って、扱いにくい」
 石突――ただの棒の先端に過ぎないはずのものがかすった敵の、服が、頬が、鋭利な刃物をかすめたように切れた。
「……う、ううう、嘘だー! 切れてんじゃん! 切れてんじゃん! 刀じゃないのになんで!?」
「当てれば切れるさ。要は当て方の問題だろ? こう、すぱーっといけば」
「…………」
 事態が把握しきれていない敵よりも、仲間らしいグローブの人物の方が青ざめる。
「だ、大体、それマジ傘なの? ただの傘? リボーンが傘に偽装した仕込み刀用意してなかった?」
「してたけど。確かにあれの方が、重心も軸も安定してて、武器としちゃ格段によかったんだけど」
「なんでそれ持ってこないわけ!」
「傘としちゃ使いにくかったから」
「なにそれーーーーー!!」
 漫才のようなかけあいに耐えかねたか、再度「ふざけるな!」と怒声を発しながら、残った男達がしかけてくる。
「……っもう……仕方ないけど! それでもデキるんだろうな!?」
「ご命令とあらば。10代目」
「〜〜命令で、お願い、だよ! あんま傷つけないで勝って!」
「……了解!」
 ――そして。
 踊るように舞う傘は、冗談か、そうでなければ悪夢のように、その場の男達をまたたく間にのして見せた。
 炎をまとうグローブの出番がほとんどなかったことも、ついでに付記しておく。


 咳き込んだ苦しさで意識を取り戻した『彼女』は、道路に累々と横たわる気絶した仲間達に、全部が『終わった』ことを知った。
 立っているのは2人だけ。
 最初の傘の男と……少し悲しそうな目の、小柄な青年だ。
「……っゴホッ……! こ、殺せ……!」
「……やらないよ」
 悲しそうだった青年の目が、かすかに険しくなる。
「そんな必要もない。そのつもりなら、最初に、君の手首折ることも――突き飛ばしたときに死なせることも、簡単だった。……彼がやろうと思えば」
 視線で示された背後の男は、ひらひらと傘の柄を振ってみせる。
 よれた安物の黒っぽい背広。くたびれたシャツの首にひっかかった、ひと束千円みたいなネクタイ。
 眼鏡は外されて胸ポケットにかかっていたが、平日の夕刻、町のどこの片隅でも見かけるサラリーマン風の男だ。
「……なめられたものね」
「そうでもない。君らがどう思っているか知らないけど……『殺す必要もない』、これが君らとボンゴレの力の差。公正な認識なんだよ。
 大体、うちの諜報部にこの時間も場所も筒抜けだった時点で、君らの負け。しかもこっちは、この人数で対処できる、それが現実。
 君を見逃すのも、彼らを気絶させただけなのも……甘いとか、覚悟がないとかじゃなくて」
 ここで背後の男は小さく笑った。小柄な青年が、とがめるような視線を送る。
「……ただ、そんな必要すらないってだけだ」
 言い捨てて、彼がきびすを返す。背後の男もそれに従った。
「できたら『次』とか考えないで、足洗ってね。せっかく綺麗な手なんだし、ほんとにただの時計つけた方が似合うと思う」
 最後の捨て台詞も屈辱的だった。
 が、かっとなって見た左手首に、気付く。
 あれほどの力で捕らえられ、金属の鎖を引きちぎられたというのに。
 ……そこには、なんの痕も残っていなかった。アザはおろか、かすり傷ひとつ。
 屈辱以上の圧倒的な敗北感にうなだれた彼女の耳から、2つの足音が遠ざかる。それにかぶさるように、不審をささやく町の喧騒が戻ってきていた。


「ツナも、言うよなー」
 町行く人ごみにまぎれての、帰り道。
 くるり、とふざけるように傘を回した山本に笑いながら言われて、ツナはむっと眉をひそめた。
「……オレは、本気だったよ」
「だからこそタチが悪ぃんじゃね?」
「……なんだよ」
 変装のためと称して、いつものスーツとは比べ物にならないような安物背広を着せられた男は、それでも、笑えばいつもの『山本』だった。
「山本こそタチ悪いだろ。なにあれ。ただの傘なくせにぶっちぎり。おかしいだろ」
「おかしかねーよ」
「おかしいよ! そもそもなんで、ちゃんと仕込み武器じゃなくて傘――」
「だからそれは」
 言いかけた山本が、ふっと空を見上げる。
 つられて天を仰いだツナの頬に、冷たいものがぽつりと落ちた。
「あ――」
「きたな」
 言って、山本が手にした傘を広げる。安っぽい布地を広げて、それでも幅広の男物は、見上げるツナの視界をすっぽり覆った。
 ぽかんと見返すと、隣の男が笑う。
「夕方からの降水確率、80%だったんだ」
 1滴だった雫は、またたく間に連続した雨となり、広げた傘を叩き始める。そのフィールドの外の足元では、道路を雨が濡らし始めていた。
 人々が瞬間、わっと騒ぎだし、各々、足を速めたり、手にした傘を取り出し始めたりと、にわかに慌しい気配がそこに満ちた。
「ま。ニュース見なかったとしても、けっこう分かるんだよなー、オレ。昔っから天気は気にしてた。実家、客商売だったし、今日の野球の午後練はあるかなー、とかさ」
「……まさか、山本」
「んで、降りそうだと思ったから」
「こ、このためにただの傘にしたのーーーー!?」
 愕然とするツナに、ああ、と同じ傘に収まった友人が頷く。「正解だったろ?」と。
「小僧が用意してくれたのは、傘としちゃイマイチだったからなー」
「そっ……それで負けたらどうするつもりだったんだよ……!」
「負けなかっただろ」
「そ、そういう問題じゃなくて!」
「圧倒して、勝って、お前の命令もお願いも守れて、今はこうして濡れずに済む」
 何か問題が? と、清々しい笑顔で、雨の守護者は言い放った。
「せっかく直々にご指名受けての、お前と2人の任務だったんだ。帰りに10代目濡らすわけにゃ、いかねーじゃねーか」
「…………」
 ツナはなんだかげんなりと言葉をなくし、なくしついでに、こんなバケモノ相手にした、さっきの敵の皆さんに同情した。
 それで、ふと思い出す。
 そういえば、敵の頬すら切って見せた、物騒な石突が、かざされた傘の先端にあるはずだ。
 すでに雨はしとどに傘を濡らし、骨の先から雫が絶え間なく垂れている。
 そこにさっきの敵の血がちょっぴり混ざっているかも、と想像して、ツナはなんとなく、傘の中心――つまりは山本の隣に、心持ち、身を寄せた。
 もう、いい。武器がどうとか、男2人で相合傘シチュエーションってどうなのとか、深くは考えまい。
 せっかくなんだから濡れないで帰ろう。
 ため息ひとつでそう開き直ったツナに、山本は無言で笑って。
 夜の近づく雨の町を、2人は、ひとつ傘の下、並んで帰って行くのだった。



……すみません。戦闘苦手なくせに、趣味に走りました。
傘で戦う山本が書きたかっただけです。
山本は、傘で戦ってさえかっこいいと信じてる。

敵がなんの勢力かとか、何する計画だったとか、深いことは考えずにおいて下さい。